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2013.11.04 「昭和38年の思い出の品」




徒然に浮世の憂さを戯言に(阿呆の戯言・独り言)。

おぼしきこと言はぬは、腹ふくるるわざなれば、
筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、
人の見るべきにもあらず。
         (徒然草19段)



身の回りのガラクタを整理していたら、西武新宿駅前にあった「歌声喫茶」の歌集がでてきた。
昭和38年は大学一年生の時であり、まだ、勉学の意欲に燃えていた真面目な?ときであった。
友人や先輩と何回かいったことがある。
センターの舞台で3人ほどのリーダーがいて、歌集から選んで合唱したように記憶するのだがはっきりとは思い出せない。
51年も前のこと。

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入学して夏も過ぎる頃には、麻雀を覚え、そして授業には出ず雀荘にたむろし、バーに飲みにいっては金が不足し時計をカタに置いてきたり、
携帯ラジオはいつも質屋の蔵の中に保管されていることが多かった(学生さんを信用してくれた時代だった)。

安酒の味を覚えてからは、友人達と徹夜で飲み明かし、よく議論をしていた。
その結果、単位を落とす事になり、年々成績は下がっていった。

(当時、授業料が50,000円、6畳のアパート代が6,000円、高田馬場~鷺宮間の電車賃が20円、携帯ラジオを質入して2,000円貸してくれたので小遣い不足の時には助かった。
授業料を使い込んだりもしたが、オヤジのところへ延滞の督促がいきバレてしまい、その後、授業料支払いは銀行振り込みにされてしまった。)

ジャズ喫茶か田園(クラッシク喫茶)にたむろするようになり歌声喫茶の存在も完全に忘れてしまった。
卒業する頃にはもうなかったような気がするのだが。

母校の出身者には、中退した著名人が多くいたためか 「一に中退、二に留年、三,四がなくて五に卒業」などといわれる。
単位を落としながらも卒業してしまった平凡な私は、つまらぬサラリーマン生活を37年続ける事になる。

60年安保闘争とその後に起った嵐のような全共闘の時代の狭間の時代で、昭和39年はオリンピックが開催され、日本は高度成長期を迎える時代だった。
今思えば、ノンポリ学生として過ごしたが、懐かしい4年間の学生生活だった。


 
阿呆は自分以外の人間はすべて阿呆だと思ってる。
通常人は自分は阿呆でないから通常だと思っている。
No medicine can cure folly. 

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by kappa-999 | 2013-11-04 22:45 | 戯言@河童