2015.08.16 孫の阿波踊り初参加(2015.08.12)。




3歳になる孫が阿波踊りに参加するというので見物に。
4年ぶりの見物



新町橋演舞場の出口付近で輪踊していた連。

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いつもは踊り終わった連や見物客でごった返す紺屋町演舞場の出口付近だが、
途中で雨が降ったためか桟敷も空席が目立ち閑散としている。


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今回は桟敷からの見物ではなく、孫の連について混雑する繁華街を通り抜けて移動するので、
脊柱管狭窄症の痛みを抱える身にとっては辛いものがあったが、
孫が元気に踊っている姿を見ると痛みも我慢、我慢。



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保育園児と町内会の子供達が参加して踊るモラエス連。

モラエス連は、孫の住む町内にモラエスが住んでいたことから付けられた連の名前。


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最後の踊広場では、さすがに3歳児の孫も疲れたのだろう、
少しグズッタが最後まで踊り通す。



モラエスとは(wikipediaより引用)。

ヴェンセスラウ・デ・モラエス (ジュゼ・ジ・ソウザ・ジ・モライシュ)(Wenceslau José de Sousa de Moraes, 1854年5月30日 - 1929年7月1日)は、ポルトガルの軍人、外交官、文筆家。

1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれ、海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。1889年に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤めた。

モラエスは1902年から1913年まで、ポルト市の著名な新聞「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介しており、それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行された。

神戸在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになる。1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞し引退。ヨネの故郷である徳島市に移住した。ヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあったという。1929年、徳島市で孤独の内に没した。

著書に『おヨネとコハル』、『日本精神』、『ポルトガルの友へ』、『徳島日記』がある。ポルトガル語で著述したこともあり、生前には日本ではほとんど注目されることがなかったが、死後、日本語への翻訳がなされ、昭和初期の時代の風潮もあり、日本賛美として取り上げられるようになった。

徳島市のモラエスの旧宅の一部は現在眉山山上の博物館施設「モラエス館」の内部に移築されて保存・活用されており、また壮年期を過ごした神戸の文学館ではモラエスに関する資料が展示されているなど、後世に伝えるべき文筆家として高く評価されている。以前旧宅のあった徳島市伊賀町一帯には「モラエス通り」と名付けられた通りがある。


(追記)

阿波踊りに参加した子供の数からも分るが、昔はウジャウジャいた子供達だったが、今は孫が住む学区内の幼稚園児の数が15人程度だという。
ここまで少子化が進んでいることに驚く。
幼稚園もそうだが小学校も存立の危機に立たされているのでは。

戦争法案にうつつを抜かすアベシンゾウとその不愉快な一味。
今、日本の最大の課題は急速に進む少子化をいかに食い止めるかだろう。

無理やりこの法案を成立させても、人口が減少すれば兵隊さんになる数も減り、日本を守れなくなるのでは。
何時の日か、女子供まで戦場に送り出さねばならない時代が来るように思えてならないが。



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by kappa-999 | 2015-08-16 21:06 | 阿波踊り