2016年 11月 09日
2016.11.09 東京駅。(10/24)
小田原からは新幹線を利用し品川で京急に乗り換えて羽田空港まで行くつもりだったが、
カミサンが東京駅がリニューアルされていることを思い出したので、行先を東京駅に変更。
丸の内側に出たが工事中だったので、東京駅の全景を撮らず。
雑踏をPicasaでカットした東京駅



More 新幹線「小田原駅」
2016年 11月 02日
2016.11.02 美味しいものが食べられなかった旅行(10/22~10/24)
思うようにならない。
コンビニ弁当ですましたりで、自分が思っていた以上に体が動かないし気力も失せている。
食べたい物を探せない残念な旅行になる。
柴又帝釈天での食べたのは、川千屋の柳川鍋と高木屋老舗の草団子

帝釈天の帰りに浅草の「駒形のどぜう」に寄ってみようかと思ったりしたが、
足腰の痛みが本格化しそうだし、寄り道は無理と思い、川千屋で柳川鍋を食す。
柳川鍋を食べるのは、これで2回目。
就職して3年目に上京した時に友人と食べたのが最初だった。
47年も前のことで味を忘れているが、美味しかった。
私の住む地方ではジョウを食べる習慣がないので珍しい食べ物になる。
↓の高木屋老舗の草団子も甘くて美味しい。

学食で食べた大隈定食。
私の時代に比べメニューも豊富だし栄養価も考えられていて美味しくなっている。

小田原駅構内にある立ち食いそば形式のセルフの店で食べた
「冷やしきつねうどんと天麩羅そば」
移動に費やす時間を考えて十分な時間をとってあったのだが
ここ小田原でも小田原城見物するのがやっとで、小田原市街を散策する気力も湧いてこない。
せっかく小田原まで来たのに、見物もできず東京まで引き返す。
残念。

無料クーポン券をもらったが、
使いようがない。

羽田空港で食べた蕎麦。
空港ビル内で美味しい店を探そうと思ったが、ここでも無理。
小田原城に行っているし、3日目の疲れも重なり、息切れや足腰の痛みも酷くなっている。
搭乗カウンターのある2Fから3Fに移動するのがやっと。
3Fでみつけた蕎麦屋に入る。

More 美味しいものが食べられなかった旅行。
2016年 11月 01日
2016.11.01 最後のホームカミングデー(10/23)
http://www.quon.asia/yomimono/waseda/home-coming-day/



総長式辞

招待年次代表挨拶

校友会代表幹事挨拶

校歌斉唱だが、50年も歌わなければ忘れてしまっている。
まともに歌えるのは1番だけ。


西武新宿から電車で高田馬場に行き、そこからバスかタクシーで大学に行く予定で
少し早くホテルを出たのだが、疲れがとれていなかったのだろう、ほんの少し歩いただけで、
息苦しくなり、足腰も痛くなりはじめたので、ホテルの前でタクシーをひろい大学へ直行する。
式典の始まる1時間15分も前に着いてしまった。
ゆっくりと大学まで行きたかったのだが・・・

大隈講堂から見る早稲田キャンパス
50年も経つと樹木が生い茂り、建物が隠れてしまい見えない。
当時は広いと思っていたキャンパスだが、狭くなったように感じてしまう。
我々の時には、奥の建物が共通教室で、語学の授業を受けた建物。

↑は式典が始まる前のキャンパス。↓は式典が終わった後のキャンパスでごった返している。

手前の建物が法学部だった。その奥が政治経済学部の建物だったが高層ビルに建て替えられている。
手前の建物だけが昔の面影を残している。

右側奥が私の学んだ商学部の校舎だが、高層ビルに建て替えられている。
左側奥の高層ビルは何学部なのだろう。
教育学部のあった位置だが。


第二学生会館があった場所で、授業料値上げ反対デモ(150日間)のあと閉鎖されてしまった。
当時は一番新しい建物だったように記憶している。
友人に聞くと、建替えられて今は第二大隈会館になっているという。

親しかった友人達と大隈講堂の前で待ち合わせる。
5年ぶりに会うが、みんな元気である。
手っ取り早いので学食で食事をすることにする。
食事をしながら3時間ほど過ごす。
大隈ガーデンハウスという洒落た名前の建物が大隈庭園内に建てられていた。
このガーデンハウスの2Fと3Fに学食がある。


↑わりかし美味しかった大隈定食。
50円、70円で食べられたのが50年前の学食。
(喫茶店でコーヒーが50円から100円くらいだった時代)
2011.10.16 45年次のホームカミング・デー
More 2016.10.23 ホームカミングデー後記
2016年 10月 29日
2016.10.29 矢切の渡し(10/22)

カミサンが帝釈天の彫刻ギャラリーを見物している間、休憩をしたはずなのだが、息苦しさと足腰の痛みは消えない。
これでは矢切の渡しまで行くのは無理かもしれないと思いながら、境内をから出て見つけたのが↓のシクロポリタン。
このシクロポリタンがなければ帝釈天界隈の見物はできなかったかもしれない。
上の案内図の青い矢印のコース(柴又鉄板コース)

シクロポリタンとは。
ベトナムの「シクロ」やタイの「トゥクトゥク」など、三輪車型タクシーは東南アジア諸国の風物詩として
知られていますが、 Cyclopolitain(シクロポリタン)は2003年にフランスで、三輪自転車タクシー「Cyclo(シクロ)」
に市民である「Metropolitain(英語:Metropolitan・メトロポリタン)」を掛け合わせた次世代の環境配慮型タクシーとして登場しました。
日本ではドイツ発のVELOTAXI(ベロタクシー)が先行しており知名度が高いですが、フランスのシクロポリタンは
洗練された車体に電動アシストによるパワーで見て良し乗って良しです。
フランスは古都も多く道は狭く入り組んでいるため日本との共通点が多い街です。
そのようなフランスで開発され活躍しているシクロポリタンは、まさに日本の道を走るにうってつけの自転車タクシーです。
(http://cyclopolitain.jp/about_cyclopolitain/より転載)
矢切の渡し
↓中央が矢切の渡し



映画で寅さんの妹のサクラの家の方向。ここから10分程度のところだという(下流方向)。

上流方向

矢切の地名は、江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と東京都葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている。渡船の料金は大人200円、子供・自転車各100円(2012年10月現在)。「房総の魅力500選」に選定されているほか、柴又帝釈天界隈とともに環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後民営となり、代々個人により運営されている。
この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。現在、矢切にこの小説の文学碑が建立されている。 また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にも、しばしば登場する。 (wikipediaより抜粋転載)
細川たかし 矢切の渡し 【愉快にオンステージ】
https://www.youtube.com/watch?v=rzN2TsnVTLE youtubeより
文字の上下が解らず迷っている寅さんの姿だという(寅さん記念館)。

再び柴又駅と寅さんの像



高砂方面(帰り)


思った以上に体力がないことを思い知らされ、十分に柴又帝釈天を観光したとは言えないが、
なんとか一日目(10/22)の日程をこなす。
ホテルに着いたらカミサンも私もバタンキュー。
元気なカミサンを疲れさせたのは、東京の雑踏だろう。
どこへ行っても人・ヒト・ひとで、慣れない田舎者には息が詰まる。
2016年 10月 27日
2016.10.27 柴又帝釈天彫刻ギャラリーと邃渓園(10/22)




帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。(wikipediaより引用)




















カミサンが撮ってきた写真を編集。
「素晴らしい彫刻だから見てきたら」とカミサンに勧められたが、
足の痛みが和らがず見学するのを断念する。
もう一度オンデマンドで、帝釈天彫刻ギャラリーを見ることにする。
実物を見たかった。
More 邃渓園(すいけいえん)
2016年 10月 27日
2016.10.27 柴又帝釈天(10/22)
柴又帝釈天は通称。正式名称は経栄山 題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)という日蓮宗の寺院。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるが、当寺の日蓮宗寺院としての本尊は帝釈天ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)

画像出所:http://www.taishakuten.or.jp/taisyakuten-info/info-map.htm

二天門


帝釈堂

帝釈堂と本堂

本 堂

本堂と釈迦堂

大鐘楼




南大門

題経寺の家紋でガイドの説明によれば雷を表しているという。
また、柴又帝釈天では住職のことを御前様と呼ぶらしい。

納経帳と柴又帝釈天縁起


10/22 帝釈天後記

2016年 10月 26日
2016.10.26 京成柴又駅・寅さん像・帝釈天参道(10/22)
京成電鉄「柴又駅」と駅前にある「寅さん像」






創業は明治元年であると言われている。古くから柴又帝釈天の参拝客に団子などを振る舞う店として知られていたが、高木屋老舗が著名になったのは国民的映画シリーズ「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎の実家「とらや」(のちに「くるまや」)のモデルになったことである。
建物も明治・大正期に建てられたものをそのまま使用しており、「男はつらいよ」の雰囲気に触れることができる柴又を代表する名店である。(wikipediaより引用)

高木屋老舗は映画「男はつらいよ」の撮影の度に、休憩や衣装替えに部屋を貸していたのがきっかけで、出演者などと親しくなったという。その後「とらや」のモデルとされるようになり、店の外観が映画でもしばしば登場するほか、高木屋の店内には主人公・車寅次郎を演じた渥美清や監督の山田洋次から贈られたお土産や記念写真が飾られている。また店内の一角には車寅次郎が座る事を想定した「予約席」がある。
また、渥美清は撮影の合間に通行人に声をかけて高木屋の呼び込みなどもしてくれていたという。(wikipediaより引用)


創業は安永年間であると言われている。 柴又帝釈天で帝釈天の板本尊が1778年に発見され、江戸市中などから柴又へ参拝に来る客が増えて、そうした客をもてなすために柴又界隈の農家が副業で江戸川でとれる川魚料理を振る舞うようになったのが柴又界隈で川魚料理店ができた機縁と言われている。
国民的映画シリーズ「男はつらいよ」でも帝釈天参道の撮影の際に何度も登場し、ロケ地として協力している。 第23作目では結婚式会場として登場している。(wikipediaより引用)



More 京成柴又駅・寅さん像・帝釈天参道後記
2016年 10月 25日
2016.10.25 ホームカミングデーに出席することに
大隈庭園から見た大隈講堂

入学式や卒業式などの全学的な行事は、記念会堂(戸山キャンパス)で式典が行われれるのだが、
建て替え工事中で会場が大隈講堂になり、入場者数が限られるために座席が抽選になる。
5年ぶりに旧友に会いたかったが、体調もイマイチだし、出席することを諦めていたホームカミングデー。
まさか抽選に当たるとは思っていなかったのが、
↓の通知が来てしまったので、無理を押して出席することにする。
旧友とも再会、卒業後50年目、最後のホームカミングデーになる。
大隈講堂に入るのも学部の卒業式以来になる。



一匹で留守番をした「はるか」。
今回も余程、寂しかったのだろう、私の側から離れようとしない。
今は安心しきって私の側で寝ている。

2016年 10月 15日
2016.10.14 和三盆と讃岐うどん
今日も2頭のアサギマダラが飛来する。
近づくと、直ぐ飛び立ち、なかなか止まってくれない。
今日は、何とか翅を広げたアサギマダラを撮ることができた。

体調が今一なのでホームカミングデーに参加するのを諦めていたら、
記念式典の行われる大隈講堂の座席の抽選に当たってしまい、
リニューアルされた大隈講堂の中に入れる最初で最後のホームカミングデーになるので
急遽、参加すること決める。
大隈講堂の中に入るのは、学部の卒業式以来(全体の入学式も卒業式も記念会堂)だから
50年ぶりということになる。
前回のホームカミングデー以来、5年ぶりに会う親しかった友人たちのお土産にするために
香川県白鳥にある「三谷製糖の和三盆」を買いにドライブを兼ねて行く。
5年前も和三盆だった。




↑建物は重要文化財だとか。
お茶と一緒に出された「和三盆」
上品な味としか表現できない。
まろやかで優しい味。

寫眞の写りは悪いが、綺麗だった「お祝い用の和三盆」

友人達のお土産に選んだ「季節の和三盆」

帰途、海を眺めながらうどんを食べられる県境近くにあるセルフうどんの店で
「ぶっかけうどん」を食す。
この店でうどんを食べるのは久しぶり。
安くて、美味しい。
↓「ぶっかけうどん」とトッピングの「かき揚げ、げその天ぷら」

↓小豆島が見えるのだが、霞んでいる。

2016年 08月 23日
2016.08.23 ホームカミングデーへの招待状が届く。
今日、学生時代の友人に名産の「スダチ」を送る。
東京と私の住む田舎町とは遠く離れているために、冠婚葬祭とか出張で上京するくらいで
しょっちゅう会う機会がない。
私が田舎町で、まだ、元気に生きているという証として毎年送っている。

友人達と会う機会を作ってくれているのがホームカミングデーになる。
5年前も脊柱管狭窄症に悩まされていたが、若さと痛みに耐える気力があり出席した。
そして、痛みに耐えながらも弘前まで足を延ばした。
今は5年前の元気はない。
狭窄症は良くならず、50m歩くのが精一杯になっている。
痛みに耐える気力も失せかかっている。
これでは羽田空港のコンコースや駅の長いプラットホームを歩くのに難儀する。
大都会の雑踏の中をかいくぐるのは無理。
ホームカミングデーへの出席を諦めるしかない。
記念式典への参加はどうでもいいのだが、
友人達と久しぶりに会えるのを楽しみにしていただけに、残念。
諦めていたのだが、案内状が届くと無理してでも行こうかという気持ちが湧いてくる。
5月の沖縄旅行の4日間、足腰の痛みだけでなく狭心症の発作を経験しているだけに無理は禁物ということだろう。
沖縄旅行の時は息苦しさと胸痛がセット、
狭心症はステント治療したが、今も息苦しさに悩まされている。
(一昨日、風邪気味だったので迷医に点滴をしてもらい、不必要な4種類の薬を貰って帰り、抗生物質だけ飲んだのだが
点滴が悪かったのか、抗生物質と他の薬との飲み合わせが悪かったのか
息苦しささが酷くなり、歩くのがやっとの状態。
迷医との付き合いは長く、世話になり、人柄は良く、いい医者の部類に一応入るのだが
付き合いが長いだけに予断で診察しているし、
脊柱管狭窄症のリハビリをしているが、あと2ヶ月で痛みが緩和されればいいのだが・・・・・・
五年ごとに送られてっくるホームカミングデーへの招待状。
1967年が卒業年次だから、卒業してから50年が経ったいうことになる。


光陰矢の如し。
いつの間にかaround seventyではなくアラ棺の年代になっている.。
友人と80才まで生きようぜと約束したが、
33年間で38回入院(うち全身麻酔4回)し、彼岸に3回渡りかけていたのだから
後、3年生き延びれば御の字のような気がしている。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」(太田蜀山人)と
60代の時は生に執着する気持ちが強かったが、
今もその気持ちはあるが、諦観の方が強くなってきている。
終活は40代の時からしている、いつ、彼岸に渡れるのだろうか。
人間とは己の生死を決められない不便な生き物だ。
理由はどうあれ自死は、生を全うしたとはいえないのでないだろうか。